ウオップパラダイス: 2023

2023年7月3日月曜日

慶應大学構内のカフェで『ディスタンクシオン』を読む 3

 


そら、早く。女は急かすように言った。

驚きで、思わず手を止めていた僕は、

あわててパンを放りこむ。

こんなテンポでパンを投入し続ける?

拷問か?

理不尽な要求にも応えようとする自分

とそれに抗い、抵抗しようとする自分。

それがぶつかり合い、息が苦しくなる。

しかしその葛藤さえも抑え込み、パン

をつかんでは投入口に放りこみつづけ

た。その葛藤は正しく、考えるに値す

ることだとは思う。でも今は夢中でパ

ンを放りこむことに専念するしかない。

そうしないと作業が間に合わないのだ

から。かなり早いテンポで、ダメだ、

こんなテンポでつづけられるわけがな

い、と弱気と焦りが滲みだしてくる。

その感情さえも抑えこみ、僕はひたす

らパンを投入しつづけた。

あと何分、あと何時間、あと何日、あ

と何年…、

これは試練なのだ、人生は甘くない。

そのことを徹底的に教え込むための容

赦のない試練なのだ。

 

次次次次次次次次次次次次次次次次…

 

回転台の上のパンの群れが、すこし個

数が減ったことで、パンの隙間から床

が見えてきた。早いテンポの過酷さに

さえ慣れてくるという驚きの思いと、

すこしの余裕から僕は目を上げて、素

早く周りを見わたした。

そのとき目にした。こちらに向かうラ

イン上に次の棒パンの大集団が、ジリ

ッ、ジリッ、と押しよせてくる。


これは、…試練なんだ。人生は甘くな

い。人生は苦しい。そうなんだ。苦し

い。しかし、どうして? それはほんと

なのか。苦しいばかりじゃ、生きてて

もしょうがないじゃないか。

そんな葛藤より、しかし今は苦しいの

だ、棒パンを投入しつづけることは苦

しいのだ。それは間違えようのない真

実だ。

苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい、

あと何分、あと何時間、あと何日、あ

と何年…、

僕は、うっすら涙で滲んだ目をもどし、

棒パンを素早く手でつかむ。

 


慶應大学構内のカフェで『ディスタンクシオン』を読む 2

 


勤務先はパン工場。夜勤のライン仕事だった。
「不良品を弾いたり、蒸しパンの下にシートを
セッティングするという、ひたすら単調な仕事
です。夕方6時から翌朝5時までです」

2021年、走行中の小田急線車内で3人の乗客を
刺し、車内に油を撒いて放火しようとした37歳
の男は、抜け出せない貧しさから世の中の人を
妬み、嫉妬し、犯行を強行した。
その男の、苦しい生活についての証言の一つに
パン工場での経験がある。

パン工場のバイトは、僕もやったことがある。
ラインを流れてくる棒状のパンを、次のライン
への入り口に一定の間隔で1本ずつ投入してい
く。次のラインでは、そのパンにクリームや
惣菜を挟んだりトッピングしていく。
送りこむ間隔は、一定のリズムでないといけな
いという。こんなもんかな、と1本ずつ投入し
ていると、脇で見ていたライン担当かなにかの
女が、不満げに何か呟くと背後の棚から何かを
手に取り、投入口のそばに置いた。小さなその
器具は、甲高い笛のような音を、短い間隔で鳴
らしつづける。
この音に合わせてパンを入れろと女が言う。
僕の胸は、ぎゅるんと鳴って心臓が競り上がっ
てくるような気がした。その女の指示がすぐに
は飲み込めなかった。
なぜなら、その間隔はあまりにも短かったから。