19歳、はたちのころ、頭が割れるかと思うくら
い悩みに悩んだ。
夏の夜の公園。ブランコに腰掛け、地面を見つめ
つづける。腕が熱い空気につつまれ、腕毛がしめ
りけをおびている。
みぎ前方に立っている友人の膝から下がみえてい
る。その後ろにもう一人いたはずだ。それぞれ
仕事をすませ、どこへ行くともなく佇んでいる。
女あさりも貧乏な若者には限界があるし、酒で
楽しいふりをする虚しさも、なんとなく感じて
いた。まだまだおもしろいことがたくさんできる
はずだとは思ってはいたが、なぜかその手応えの
ない毎日に飽きて嫌気もさしていた。
いまの仕事は金を貯めるため、社会体験を積むた
め、などというお決まりの方便を口実に就いた
仕事だ。このままここに埋もれるわけにはいかな
い。ところが、その仕事がすこしおもしろかった
りするのがよけい厄介だった。
先の生活への不安と相まって、踏ん切りがつかな
い。そんな意気地のなさが腹立たしい。
過干渉の母のこと、不良な弟たちのこと、若さを
鼻にかけたかけひき好きの女たちとのゴタゴタ。
あれやこれやの憤懣が渦巻いて、頭の中心部を
どろどろの溶岩が渦巻いているようだった。熱が
縦に走り痛みを感じた。
まわりの木立がゆらっと揺れた。
ボコッ、
頭が真ん中から割れ、朱色の大小のシャーベット
状のかたまりが吹き出した。
体が前に倒れ込み、割れた頭の中身が地面にぶち
まかれた。それは砕け散った西瓜の身だ。
西瓜汁の溜まりに頭部を沈めて、おれは思った。
おれの脳は西瓜だったのだ。西瓜の脳に、人生の
難問に向き合えというのが無理なはなしだ。
おれは頭をのろのろともち上げ、ふたりの友だち
を見上げて言った。
「おまえら、苦しくないのか」
ふたりはうす笑いを浮かべて、ただ見下ろしてい
た。
正統的文化に関わる趣味を自然の賜物と考える
カリスマ的イデオロギーに反して、科学的観察は
文化的欲求がじつは教育の産物であることを示し
ている。
まだ序文である。
シェイクスピア、サルトル、トーマス・マン、フ
ロイト、ユング、吉本隆明、大江健三郎…、
当時、 文化的教養とされていたこれらの作品、人
となりについて、いろんな経験、体験をかさねて
いくに伴い、しぜん身についていくことになるん
だろうな、そう思っていた。
ところがそうではない。
あらゆる文化的習慣行動、たとえば美術館に行く
こと、コンサートに通うこと、読書をすることな
ど、また、文学・絵画・音楽などの好みは、まず
教育水準、そして出身階層に密接に結びついてい
るのだ。
的指標として機能する傾向をもつ。
そして、ある対象を獲得する方式(マニエール)
は、獲得物を使用する方式のなかに生き続ける
ものである。
むずかしい言い方するなぁ。
つまり、それなりの作法と品格ある振る舞いを
そなえた人物でないと、それら教養高い趣味は
身につかないし、あちらからも寄って来ないと
いうことなんだな。
校庭の渡り廊下で、うんこ座りでパンツ見せて
る女子高生なぞには、高尚なるものは怖気を
ふるって近づきゃしないのだ。
人がなぜ、振る舞い方、礼儀作法というものに
対して強い関心があるのか、その理由がここに
ある。文化の様々な獲得様式(モード)──
幼いうちに獲得したか大きくなってから獲得し
たか、家庭で獲得したか学校で獲得したか、と
いったことで、これらはヒエラルキー化(階層
組織化)されている。それら特徴ある慣習行動
によって識別されるのだ。
どう識別されるのか。
distinction か、そうでないか。
お里が知れる、という言葉がある、あった。
いまはハラスメント用語になるのかもしれない。
昭和の時代にはよく聞いた言葉だ。
要するに、そういうことだ。
つまり、西瓜頭なやつらにとっては、すべてが
手遅れなのだ。